科学技術コミュ日記

情報技術による新たな議論形式の模索

モジュール3「活動のためのデザイン」課題レポート

北海道大学オープンイノベーションハブ エンレイソウ
北海道大学オープンイノベーションハブ エンレイソウ

9月と10月には、モジュール3「活動のためのデザイン」講義、計5回がありました:

  1. 哲学思考の方法及びその伝え方~哲学カフェやメディアでの実践から~(小川仁志)
  2. ミニ・パブリックスと参加・熟議のデザイン(三上直之)
  3. 複雑さに対処するためのシステム工学(三浦政司)
  4. 観察と発見のデザイン(三澤遥)
  5. 社会課題解決のための協働型評価~対話とエビデンスの交差(源由理子), e-learning

それらについては、以前の日記で述べました: モジュール3講義、9月と10月の活動 - 科学技術コミュ日記(2023-11-12)

以下、モジュール3の課題レポートをここに公開します。

個人的に関心のある「思考のための道具」に繋がるような形で述べてみました。思考のための道具については、CoSTEPのプレゼン演習でもトピックとして取り上げました: カクトビック数字と、数々の多様性 - 科学技術コミュ日記(2023-11-02)

また、過去のモジュール課題レポートは、以下の日記にて公開しています:

課題

モジュール3の講義で取り上げた活動のデザインの講義を踏まえ、科学技術コミュニケーションとして取り扱いテーマを一つ具体的に想定し、具体的な活動案について述べてください。(800〜1200字程度)

(原文ママ)

提出文

CoSTEPモジュール3の講義では三浦政司氏から、時に数十万もの人々が関わる宇宙開発から生まれた、複雑さに対処するための「システム工学」が紹介された。システムには「ゴール」が設定されており、それを達成するためにプロジェクトが進行する。では、そもそもそのゴール自体を「議論」することにも、多くの人々が上手く協働できる仕組みを検討できないだろうか。

三上直之氏の講義では「ミニ・パブリックス」という、ランダムに選ばれた市民が集い熟議する手法が紹介された。これには、参加者の負担が大きく、地理的・時間的制約があるといったデメリットがある。小川仁志氏による講義では「哲学カフェ」という取り組みが取り上げられた。そこではファシリテーションの重要性が指摘され、実践における極意が披露された。ファシリテーションは、議論が有益になるかを握る鍵であるが、それは誰しもが上手くできることではないだろう。

数々の情報技術を活用することで、これまでにない有益な議論の形が実現できるのではないかと私は考える。

まず「インターネット」により、地理的・時間的制約を超えて、これまで参加したくても叶わなかったより多くの人々が議論に加わることができる。これは特に、ニッチなトピックを扱いたいときに有用だと考える。興味や問題意識を共有する人たちが近所にいないとしても、グローバルには一定数存在するのであれば、その人たちはオンライン空間で集うことができる。

しかし、既存のブログやSNSといった形式は、情報が断片的だったり、文脈から切り取られて解釈されたりと、深い議論には必ずしも適してはいないと私は考える。より良い思考とコミュニケーションのために、技術のさらなる活用はできないだろうか。

例えば、「ダイナミックなメディア」であるコンピューターの特性を活かして、文章を単に直列に並べるのではなく空間的に配置したり、情報をズームイン/アウトして閲覧するような形をとることができるだろう(Infinite Canvas [1])。また、情報を有機的にリンクで結び付けていく形式(Wiki, Digital Garden [2])も有益だろう。人間自体が生物学的に大きく変化しなくても、このように新たな表現や道具を用いることで、思考とコミュニケーションのレベルを上げることができると私は考える。

他には「大規模言語モデル(LLM)」も活用できるだろう。人間では処理しきれない情報を要約したり、それぞれの背景知識に合わせて換言したり、議論を進行する上で質問を投げかけたり軌道修正を示唆するようなファシリテーションも考えられる。(少なくとも現段階では)LLMは価値判断という行為自体には適していないだろうが、それを行う人間の補佐として力を発揮できるだろう。

紙の本をデジタル化するクラウドソーシングの仕組み(reCAPTCHA)を発明したルイス・フォン・アンは「10万人で月に人を送れたのなら、1億人ではいったいなにができるだろう」と問いかける [3]。近年、Wikipediaやオープンソースソフトウェアといった、従来では考えられなかった人類の協働が、情報技術の活用によって生まれている。「議論」も、同様に大規模な協働が上手くできれば、それは社会にとって有益な結果をもたらすのではないだろうか。

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