科学技術コミュ日記

伝えるけど伝わらない

実習にてアート談義。アブラモヴィッチ、クルーガー、過激さと文脈、思想とエンタメ

北海道大学弓道場
北海道大学弓道場

昨日は、実習と講義がありました。土曜日のキャンパス、来週の北大祭へ向けて、学生さんがあちこちで準備されていました。

午前中の実習では、ずっとアートの話をしていました。午後の講義では、標葉隆馬さんによる「先端科学技術の倫理的・法的・社会的課題と責任ある研究・イノベーション」というお話がありました。講義については別記事で書きます(2023-05-29追記: 書きました)。

この日の実習は、CoSTEPスタッフの朴炫貞さんからマリーナ・アブラモヴィッチとバーバラ・クルーガーという二人のアーティストがアツく紹介され、それを題材にアートについて議論しました。

マリーナ・アブラモヴィッチ(Marina Abramović)

まずはユーゴスラビア出身のパフォーマンスアーティスト、マリーナ・アブラモヴィッチ。なかなかショッキングです:

マリーナ・アブラモヴィッチ - Wikipedia

恋人がマリーナへ向けて弓を引く、少し間違えれば殺してしまうパフォーマンス(“Rest Energy”, 1980)や、拳銃やナイフなどを含む沢山のアイテムを用意して6時間のあいだマリーナへ対して何をしてもいいというパフォーマンス(「リズム0」, 1974)、などなど。どれも背筋が寒くなります。リズム0など、人間のドロっとしたところをまざまざと見せつけられるようで、非常に怖い。自分がその場にいたらどうふるまっていたでしょうか、それを考えるのもなかなか恐ろしい。

これほど過激なものの他にも、さまざまなパフォーマンスを行なっており、以下のトークで色々と紹介されています:

動画でも挙げられていますが、近年の彼女は、美術館に1日中座り、対面に来訪者が来て3分間見つめ合う、というパフォーマンスもおこなっています(“The Artist Is Present”, 2010)。3ヶ月で1000人と見つめあって、泣いてしまう人もいたそうです。この体験は人生を完全に変えた、とマリーナは上の動画で述べていました。トークの最後では観客に、隣にいる知らない人と2分間見つめあわせていました。先週の実習でのBlind Contour Drawingでも相手の顔を30秒見つめましたが、あれをもっとやってみるとどうなるのか興味があります。

バーバラ・クルーガー(Barbara Kruger)

次にアメリカのアーティスト、バーバラ・クルーガー。モノクロ写真の上に、Futuraフォントでデカデカとシンプルに、赤字に白のフレーズを載せるスタイルが有名で、これはファッションブランド「Supreme」の元ネタになっています:

バーバラ・クルーガー - Wikipedia

実際の展示では、人の大きさをはるかに超えるサイズにしていたり、部屋一面を大きな文字で埋めたりしているそうです。私は主にウェブで色々作ったりしますが、その際には小さなスクリーンに閉じたものになるため、そのような物理的なサイズでの圧倒というのは良いなあ、憧れるなあと思いました。彫刻や写真でも、実寸の人間より大きいかが一つの基準になったりするみたいです。

そういえば、十和田現代美術館というところには「おばさんの像」が展示されています。これは見た目自体は普通のおばさんなのですが、高さが4m近くあります(ロン・ミュエク「スタンディング・ウーマン」, 2008)。その昔に行った時には、なんか分からんけどおもしろいなあ、と眺めていた記憶があります。

過激さと文脈

アート、特に現代アートというものについて、私はまだよく飲み込めていないことが多いです。

アブラモヴィッチのショッキングなパフォーマンスも、今回は朴さんの解説をもとに見ることができたので、よりよく味わうことができたように思います。上で紹介した動画で彼女は、「恐怖」や「信頼」について言及していました。もし文脈などの情報無しに見ていたら、その激しさから興味は抱くでしょうが、単に「なんかヤバいことやってておもろいなぁ」くらいで終わってしまう気もします。

過激なパフォーマンスはYouTuberなどでも多く見られるでしょうが、その違いはなんでしょうか。展示される場所、紹介のされ方でも、受け手の捉え方は大きく変わりそうです。時代性も大きいのではないでしょうか。

アートの枠組みだからこそ許されるものもあるでしょうが、ただ闇雲に過激なことをして人目を引くというのも違うでしょう。パフォーミングアートは「手段が目的を超えちゃうこともある」などということも話していて言及されていました。

アートとは異なりますが、話していてハンガー・ストライキも話題に挙がって、ああなるほど、言われてみればそことも関連するかとハッとしました。ベトナムの僧侶ティック・クアン・ドックによる、政権からの仏教徒へ対する高圧的な政策への抗議としての焼身自殺も強烈に激しい事例として思い出しました:

Thích Quảng Đức self-immolationMalcolm Browne for the Associated Press, 1963 (Public Domain)

思想とエンタメ

アートとエンタメは同じではない、アートは必ずしも分かりやすさや娯楽性を求めるものではないと承知した上で、以下の言葉を思い出します:

「思想的に強力であるにも関わらずエンタメとしても面白い」っていう作品が攻守共に最強

19/10/21 日本興行収入上位映画100本を見た感想 - LWのサイゼリヤ(2023-05-28取得)

例えば、ディズニー映画など。

Rage Against the Machineという私の好きなバンドは、その音が強烈にカッコいいのですが、併せてその強い思想や態度でも知られています。「Sleep Now in the Fire」という曲のミュージックビデオでは、ニューヨーク証券取引所の入り口でゲリラ演奏を行い、最後は警察に連行される様子までが映されています。監督はマイケル・ムーア:

ちなみに、Rage Against the Machineのデビュー・アルバムは、上で紹介したティック・クアン・ドックによる焼身自殺の写真がジャケットに使われています。

伝える、伝わる

今回の実習資料に朴さんは「伝える」というタイトルをつけていました。

特にアートは、受け手によって解釈にかなり違いが生じるでしょうし、またそれは多くの場合に作家の意図とは異なるのではないでしょうか。

数週前の川本思心さんによる講義「科学技術コミュニケーションとは何か」についての日記でも引用した、以下の言葉を思い出します:

コミュニケーションにとって決定的なこと。それは、コミュニケーションの成否を決めているのは、受け手の側だということです。

岸田一隆『科学コミュニケーション 理科の〈考え方〉をひらく』(平凡社, 2011) 第1章「科学コミュニケーションとはなにか」

また、予備校講師の林修さんによる以下のお話も思い出しました:

今増えつつあるのが、塾や予備校の講師になりたいと、自ら志願してきた人たちです。若い先生に特に多いのですが、皮肉なことに、いい先生だなあと思う人は少ないですね。やはり、いろいろやらかしてきて、回り道を重ねてきた人のほうが魅力的な人が多いんですよ」

――そういう先生の方が、たくさんのエピソードがあって、生徒からも人気があることが多い、ということでしょうか?

「もちろん、全員がそうだというわけではありませんが。でも、『僕は人に教えることに生きがいを感じているんです!』といったタイプは、講義に魅力を感じない人が多いんですよねえ。力みかえって『伝える』ことに夢中になってしまって、『伝わる』かどうかを考えていない。自分の思い込みを生徒にぶつけても、伝わらないんです。

林修『受験必要論』(集英社, 2015) 第5章「予備校講師としての責任」(強調引用者)

アートはむしろ、その曖昧さ、解釈の余地を残すことに醍醐味があることも多いのかと思います。他方で科学技術コミュニケーションにおいては、情報が誤りなく伝わることが目的でしょう。ただ、場合によってはその先に解釈の余地を持たせたいこともあるでしょうか。ただ受け取らせるのではなく、受け手に考えさせる、という感じでしょうか。…などともっともらしいことを適当に書いてみましたが、「アートと科学技術コミュニケーション」は私の中でまだうまく結びついていません。それは、これからソーシャルデザイン実習を進めていく上で考えていくべきことでしょう 🎯