科学技術コミュ日記

書くことについて

ライティング演習2回目。角五彰さんと分子ロボット。そして、下手でも書き終えることや、止まらずに書くこと、時系列のブログではない Digital Garden という形について

北海道神宮例祭での人形浄瑠璃
北海道神宮例祭での人形浄瑠璃

ライティング演習

水曜の夜は「ライティング演習」でした。1回目のライティング演習から2週間が経ち、2回目。

今回のメインは「要約編集(キーノート・エディティング)」という、講演動画を見てそれを600字程度にまとめるワークでした。

前回のライティング演習もそうですが、座学はほとんどなく、大部分はそれぞれがもくもくと書く時間です。これは家でもいいかなあと思いました。

終わってから、本科班のスタッフと受講生らで飲み会。北海道のことなど色々と話しましたが、特に科学技術コミュニケーションについて議論することはまだなかったです。

講義の内容や科学技術コミュニケーションについてはこれまで、週に3回ほど自主開催されている、オンラインのもくもく会で議論する時間が一番多いように思います。また進んでいくと、変わっていくのかなとも思いますが。

角五彰と分子ロボット

今回のライティング演習でお題となったのは、北海道大学の角五彰(かくごあきら)さんによるTExSapporoでの講演動画でした:

ライティングの題材というより、この話題自体が個人的に面白くて、個人ワークの時間はろくに原稿も書かず、この方や研究分野について調べていました(笑)

「分子ロボット」という極小のものを研究開発している方です。ロボットには「モーター」「プロセッサー」「センサー」という三つの機能が必要で、それをミクロスケールで実現するために、ATPを動力源とし、DNAを組み込み、そして光でその相互作用をオン・オフする、というような方法を編み出しています。そしてそれらを「群れ」として操ることで、モノを運んだりできるようになっていて、その研究ストーリーや、実際に動いている様子の動画も見ていて興味深いです。

角五さんとそのご研究については、以下のインタビュー記事が、わかりやすくそして面白かったです:

第65回 | この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」 | 中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室

———若い読者にアドバイスをお願いします。
私自身が大切にしてきたことの一つは、誰もやっていないことをやるという意味で、「ニッチ」をめざしてきました。ニッチというのは鳥類学者のジョセフ・グリンネルという人が生物学の分野で提唱した概念です。簡単にいうと、欲求の似た者同士は同じところでは競争関係になるため一緒に住まない、ということ。もともとは生存競争に打ち勝つための方法論だったでしょうが、研究者にも当てはまるのではないでしょうか。もし将来、研究者としてやっていこうと思うのなら、人がやっていないことをやるというのも重要な選択だと私は思います。

(中略)

ただ、ニッチというと、一人でそこだけを掘り続けるように思われるけれど、実はそうじゃないんです。弱肉強食ではあっても、ニッチなら、たとえばライオンが食べたあとのおこぼれにありつける可能性もある。植物も、陽の当たるところは大きい木が育つ一方、陽の当たらないところにはシダが育つ。結局どれもこれもが連鎖しているんです。だから、ニッチをやっているからと孤独を感じることはない。生態系の中で動植物が助け合って生きているように、研究者だって、ある研究があればそこから派生する研究があり、あるいは共同研究者がいたりして、孤独ではなくて、助け合っておもしろい研究ができるんです。絶対だれかが助けてくれるはずだから安心して勇気をもってニッチをめざせと伝えたいですね。

第65回 | この人に聞く「生命に関わる仕事っておもしろいですか?」 | 中高生と“いのちの不思議”を考える─生命科学DOKIDOKI研究室(2023-06-15取得)

書くことの難しさ

私はこの日記を、勝手に日々書いていますが、書くことはなかなかむずしい。

いまここで書いている、受講プログラムに対する「日記」という形式があることで、ある種の締め切りがあり(別に誰に頼まれてやってるわけでもないのですが)、少なくともこの1ヶ月は続いてきたかなと思います。

悪い意味での「完璧主義」が、書くこと、そして上達することへの障壁となることは多いと思います。しかしわかってはいるけど、でもやはりむずかしい…

以下、このような話題に関して、私が参考にしたことをいくつかご紹介します:

下手でも書き終える

まずは、読書猿さんによる次の記事から:

もっとうまく書けるかもという妄執をやめれば速くうまく書ける-遅筆癖を破壊する劇作家 北村想の教え 読書猿Classic: between / beyond readers(2023-06-15取得, 強調引用者)

北村想は何故はやく書けるのか?
それは、筆の遅い劇作家が最後の最後まで作品を良くしようとぎりぎりまで努力と苦闘を続けるのに対して、自分は粘ってもそこまで大して変わらないだろうと、早々に完成させてしまうからだ、という。

これは、うーんなるほどと思いつつも、やはり全てにこだわりたくなる、磨き上げたくなる気持ちには抗い難いものがあります。

どう書こうか悩むことと、実際に書くことは、上達に関していえば等価ではない。
言うまでもなく、実際に書いた方がずっと上達に寄与する。
どんなものであっても(たとえ目を背けたくなるようなしろものであっても)書き終えることで、人は多くを知ることができ、次のステージに進むことができる。

これらから導かれるのは次のことである。
「もっとうまく書けるかも」という妄執をやめれば、人はもっとたくさん書くようにもなるから、最終的には、よりうまく書けるようにもなる。

「習作、多作」ということなのかなと思います。

吉田兼好の『徒然草』にも、以下のような一説があります:

これから芸を身につけようとする人が、「下手くそなうちは、人に見られたら恥だ。人知れず猛特訓して上達してから芸を披露するのが格好良い」などと、よく勘違いしがちだ。こんな事を言う人が芸を身につけた例しは何一つとしてない。

まだ芸がヘッポコなうちからベテランに交ざって、バカにされたり笑い者になっても苦にすることなく、平常心で頑張っていれば才能や素質などいらない。芸の道を踏み外すことも無く、我流にもならず、時を経て、上手いのか知らないが要領だけよく、訓練をナメている者を超えて達人になるだろう。人間性も向上し、努力が報われ、無双のマイスターの称号が与えられるまでに至るわけだ。

人間国宝も、最初は下手クソだとなじられ、ボロクソなまでに屈辱を味わった。しかし、その人が芸の教えを正しく学び、尊重し、自分勝手にならなかったからこそ、重要無形文化財として称えられ、万人の師匠となった。どんな世界も同じである。

徒然草 第百五十段(吉田兼好著・吾妻利秋訳)(2023-06-15取得)

私はこの日記を、書くこと、そして公開することの練習としてやってます。ついでに誰かの役に立つなら儲け物です。

止まらずに書く

次に、再び読書猿さんの記事から:

書きなぐれ、そのあとレヴィ=ストロースのように推敲しよう/書き物をしていて煮詰まっている人へ 読書猿Classic: between / beyond readers

前の記事もそうですが、これらトピックは千葉雅也,山内朋樹,読書猿,瀬下翔太『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』(星海社新書, 2021)という本でも述べられています(読書猿「断念の文書術」p.118-137):

その中で彼は自分の執筆法を説明して、まず止まらず全体をざっと書き上げることから始めるのだという。
「カンバスに向うまえにデッサンをする画家のように最初の段階では、まず書物全体の草稿をざっと書くことからはじめます。そのさい自分に課する唯一の規律は決して中断しないことです。 同じことを繰り返したり、中途半端な文章があったり、なんの意味もない文章がまじっていたりしてもかまいません。大事なのはただひとつ、とにかくひとつの原稿を産み出すこと。もしかしたらそれは化物のようなものかもしれませんが、とにかく終わりまで書かれていることが大切なのです。そうしておいてはじめて私は執筆にとりかかることができます。そしてそれは一種の細工に近い作業なのです。事実、問題は不出来な文章をきちんと書き直すことではなく、あらゆる種類の抑制が事物の流れを遮らなかったら、最初から自分が言っていたはずのことを見つけることなのです」

千葉雅也,山内朋樹,読書猿,瀬下翔太『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』(星海社新書, 2021), p.119-120 (強調引用者)

昔どこかで、「思考のアクセルとブレーキを同時に踏まない」とあったのを見て、なるほどと思いました。

まずはとにかく手を動かす、吐き出す。これは私の経験からも非常に有効だと思いますが、ただ油断するとすぐ、読者的な自分による批評や編集が始まり、手が止まってしまいます。それから上手く目を逸らして、とにかくキーボードを叩き続ける。

私の好きな「真顔日記」というブログなどを書かれていた上田啓太さんは、インタビューで以下のように述べていました:

調子が悪いときって、少し書いただけで「ダメだ、つまらない」と考えてしまい、手が止まるんですよ。悪い意味での「完璧主義」に妨害されてしまうというか。

なので、「今からゴミみたいな文章を書く!」と宣言して書き始めるテクニックを使っています。いったん極限までハードルを下げてみるんです。「どうだ、これがゴミだ!」と思いながら、何の意味もない文章を1,000字ほど書き続けていると、徐々に意味がつながり始めるんですね。そしたら最初の文は消して、本格的に書き始めるんです。これも、ある意味で運動の効用と言えるかもしれません。「とりあえず指を動かせ」という発想ですね。

【真顔日記・上田啓太さんインタビュー】「最後はいつもaikoに書かされている」テキストサイト育ちのブロガーが語る文章を書き方 - 週刊はてなブログ(2023-06-15取得, 強調引用者)

これに加え彼は、体を動かすことの重要性も述べていました。ちょっと散歩にでも行くというのは、具体的で実行しやすく、かなり良い方法だと思います。

Digital Garden - 庭と川、Wikiとブログ

最後に、そもそもどのような形でテキストを書くのか?ということについて少し。

新しい形のオンライン共有ノートScrapboxを開発するshokaiさんによる、美文章滅すべし - 橋本商会という記事(Scrapboxのノート)があります。長く美しい文章は害であり、箇条書きを使ったりすべきだというようなことが述べられています。詳細はノートを見ていただきたいですが(このノート自体も永続的なものではないので、あなたが見るころには内容がガラッと変わっていたり、削除されていたりするかもしれません)、情報をどのように他者や未来の自分と共有するかという点でこれは重要だと思います。ただ、従来のブログやエッセイ、論文だったりは、まとまった綺麗な文章として成立していることが求められるでしょう。

彼はまた、毎回記憶がリセットされるメディア - 橋本商会というノートも書いています。ブログの記事やテレビの討論などは毎回、前提説明から再開するので、情報密度が低い、などということが述べられています。

今まさに書いているこの「日記(ブログ)」もそうで、その難しさ、非効率さを感じます。過去の記事を編集することは稀だし、それぞれの関連性を持たせづらい。ただ、とりあえずは何も書かないよりはマシかなと、「日記」という体(てい)で、とりあえずこのストリーム形式のメディアで書いてみています。

「Digital Garden」という概念があります。ブログのような書き切って時系列で出す形ではなく、Wikiのような、それぞれが関連していて、そして書き途中だったり、永続的ではなく日々変化していくものを指します。ブログを「小川(Stream)」、Wikiのようなものを「庭(Garden)」と例えています。庭はどのように見て回ってもいいし、また季節ごとにその景色が変わっていきます。

このトピックに関しては、私は以下の記事がとても好きです:

また上記を含む、Digital Gardenに関する様々なリソースのまとめもあります:

MaggieAppleton/digital-gardeners: Resources, links, projects, and ideas for gardeners tending their digital notes on the public interwebs

個人的には、最近はObsidianというメモアプリで、Digital Garden的に記録したりリンクしたりをやっています。ただ、情報を外部公開する時には、この日記のような形になっている。Scrapbox, Notion, Craft, Roam Research, Muse, … 新たな「コミュニケーションや思考のための道具」として私はこのあたりの進歩にとても興味があるのですが、まずは、このようになにかしら日記の形でも、書き、そして公開していことは一歩進んでいるかなあと思っています。そして9ヶ月ほど経てばCoSTEPも日記も終わり、またその時に見える次の形があるかもしれません 🏕️