科学技術コミュ日記

温室で青写真 / 科学者と価値判断

アノオンシツで青写真を作ったり。そして講義「対話のその前に〜コミュニケーションのための科学哲学」(松王政浩)、科学者による価値判断はどうあるべきか

アノオンシツ
アノオンシツ

ここ数日は雨の多かった札幌ですが、土曜日(6月10日)はとても良い天気でした。先週は北大祭があったため、2週間ぶりの実習と講義です。

実習では、教室から飛び出して温室で青写真を作ったりして、午後の講義では科学哲学についてのお話を聴きました。

アノオンシツ

北海道大学の札幌キャンパスの外れに温室があります。メインのエリアから、石山通という道路により隔てられたところにあります。

およそ50年前、1972年札幌オリンピックがあった頃につくられたものだそうで、その後、温室として使われなくなったのを、CoSTEP現スタッフの朴炫貞さんが気に入り、2020年にアートプロジェクト「アノオンシツ」となりました:

アノオンシツ ano greenhouse

温室

普段は一般開放されておらず、展示やイベントなどが開催される時だけ入ることができます。

温室の天井はガラス張りで、手動で一部を開閉できます。温室の中にはイチジクの木が生えており、実が出来始めていました。

ガラスを通して、周りを取り巻く研究林の緑が見え、この日は蝶々も沢山飛んでいました。そして鳥の声と、そばにある線路から電車の通る音。居心地のいい空間です。季節が変わると、様子もまたガラリと変わるのでしょう。

温室の一角

石山通には跨道橋(「アノハシ」)が架けられ、北大のメインエリアと行き来できるようになっていました。しかしその橋は2021年、老朽化にともない撤去されてしまいました。撤去工事のために樹木が320本ほど伐採されたそうです。伐採作業の過程は、アノオンシツのインスタグラムにも記録されています:

アノオンシツ(@anogreenhouse) • Instagram写真と動画

アノオンシツはプロジェクトとして、その伐採木を使い、チップにして燻製したコーヒー「アノトキ」をつくったり、北海道の木工家・デザイナーと椅子をつくったりしています:

北大燻製珈琲「アノトキ」 | アノオンシツ ano greenhouse

札幌の木、北海道の椅子展’21-’22 | アノオンシツ ano greenhouse

バーバラ・クルーガーごっこ

さて、我々ソーシャルデザイン班は、この日は朝からこの温室へ集いました。

前回の実習では、過激なパフォーマンスアートなども手掛けてきたマリーナ・アブラモヴィッチや、ファッションブランド「Supreme」の元ネタにもなったバーバラ・クルーガーが紹介されました。そして宿題として、クルーガー風の作品を作る、というのが課せられていました。これをこの日はみんなで見て、それぞれの論評をしました。各人、性格のようなものが出ているように感じられて、眺めていて面白いものです。私自身のものは、ある方向性を意図してつくったのですが、それが違うように解釈されているのを聴いて、かつそれがかなり真っ当な捉え方でもあり、自分ではなぜ気づかなかったんだろうと、発見がありました。

2024-01-02追記: 制作物↓ (元素材

バーバラ・クルーガーごっこ - Human Communication

朴さんが「作家になるためではなく、作家を理解するための制作」というようなことを言っていました。確かに自分で実際にやってみると、難しさの観点などが具体的に感じられて、鑑賞がより面白くなるように思います。そういえば20世紀の物理学者、リチャード・ファインマンは、「自分でつくれないものは、理解していない(What I cannot create, I do not understand.)」なんて言っていたそうです(Richard Feynman - Wikiquote)。

「フレーミング」

この日は「フレーミング」というテーマで、二人の作家が紹介されました。ジェームズ・タレル(James Turrell)とローマン・オンダック(Roman Ondak)です。

タレルは、光と空間を題材とした作品を数多く制作する現代美術家です。日本でも、金沢21世紀美術館や、香川県の直島などさまざまな場所でその作品を見ることができます。私は直島と、米国のピッツバーグにあるマットレスファクトリーというミュージアム(ラボ)で見たことがあったのですが、名前は覚えておらず、作品の写真を見せてもらって「あ〜、あの時に見たやつ、この人じゃない!?」と気づきました。広い空間があり、上部が切り取られ、そこから空が見える、というような作品だったり。最近ではアリゾナで「Roden Crater」という、直径2.4kmほどの、休眠火山自体を使った巨大なプロジェクトも手掛けています。一度、訪れてみたいものです… アイルランドにある約5000年前の遺跡「ニューグレンジ」を少し思い出しました:

もうひとり、オンダックはスロバキアの作家で、「あいち2022」でも、木の幹を輪切りにして、その年輪に応じて歴史的な出来事を刻印した作品が展示されました:

ローマン・オンダック | 国際芸術祭「あいち2022」

それよりも、この人の「Measuring the Universe」という作品が面白いなあ、いいな、と思いました。最初に見せてもらった写真では、部屋の白い壁に、黒い染みのような線のようなものが沢山見える感じで、なんだかよくわかりませんでした。これは、来場者が壁に沿って立ち、その身長をマークして、名前と日付を書く、ということをたくさんやってできていったものなんだそうです。来場者によって成り立つ作品、なるほど、面白いなあと思います:

MoMA | Roman Ondák. Measuring the Universe. 2007

青写真と怠惰の法則

それらを経て、この日の実習では皆で「青写真」をつくりました。比喩などではなく、本物の青写真です。青写真(Cyanotype)は、19世紀に発明された写真方式で、日光により印画します。

8月に開催される「サイエンスパーク」という子供向けのイベントで、この青写真の体験クラスを行うそうで、その練習も兼ねていました:

2023サイエンスパーク|体験教室への応募(8月5日) - 総合政策部次世代社会戦略局科学技術振興課

ちなみにWikipediaの記事では、計画などを指して「青写真」ということについての解説もありました:

工学史上、機械図面や建築図面の複写(青図、blueprint)に多用されたため、「設計図面」の意味で使用されるようになり、また、これから転じて、将来の計画などを指して[6]「人生の青写真」あるいは「組織改革の青写真」などと言うこともある。

(中略)

なお、「青写真」は歳時記で冬の季語である。

青写真 - Wikipedia(2023-06-12取得)

作り方は至って簡単で、液を塗った紙の上に、好きなものを載せて、太陽光に当てるだけです。今回は、温室の中にあるものや、私物、はたまた周りの林で見つけてきたものをそれぞれ載せてみました:

感光の様子

10分ほど日光に当てたら、紙を水で濯ぎます:

乾かしている様子

なんとも単純なのですが、だからこその面白さと、そして新鮮さがありました。

21世紀にはなんとも古めかしいですが、一方で最近は逆に、フィルムカメラやチェキが若者に人気と聞いたこともあります。音楽では、レコードやカセットテープも近年、売れ行き好調だったりするそうです:

世の中に普及する技術とそうでない技術を分けるのは何か、ということについて、インタラクションデザイナーの深津貴之(fladdict)さんが言っていた「怠惰の法則」というのを思い出しました。メインストリームとして「ダメな人、怠け者、意志の弱い人に優しいサービスが生き残る」というお話です。レコードからCD、そしてストリーミングへと至る変化も、そういうことかなあと思います。

そういえばプログラミング言語Perlを開発したことで知られるラリー・ウォールという人は、プログラマーの三大美徳の一つに「怠惰(Laziness)」を挙げていました。なんとかコンピューターでラクをできないか、というような考え方です(Laziness Impatience Hubris)。

さて、これに加えて深津さんは、脱落したものの中のめんどくささを価値に変えられる時は、それが娯楽や文化として生き残ることは十分にある(でも2度とメインストリームには戻らない)、とも述べていました。「乗馬」や「焚き火」、「結婚式の電報」、などなど…

怠惰の法則 | Takram Cast

先日、会社でもそういう話題になり、じゃあ「MD」はなぜ再び流行らないのかなあ、中途半端だからかな、なんて話をしていました。他には、私たちがソフトウェア開発で扱う古いファイル形式に「シェープファイル(Shapefile)」というのがあるのですが、これは疎まれはしても、別に懐かしさとか文化というような感じにはなっていません。今でもかなり使われているから懐古的な価値を見出しづらいのかもしれませんし、はたまた物理的なモノではないからかもしれません:

話がかなり飛びましたが、そんな感じの、アノオンシツでの実習でした。良い天気でした。これを経て、午後は講義です。

温室

「対話のその前に〜コミュニケーションのための科学哲学」松王政浩

この日の講義は、北海道大学科学基礎論研究室の松王政浩さんによるものでした。松王さんは以前にCoSTEPの部門長を務められていたこともあるそうです。今年(2023)の2月に、松王さんがコメンテーターを務められたサイエンスカフェがあり、私はそちらもCoSTEPの予習がてら覗きに行って、お見かけしたことがありました:

第128回サイエンス・カフェ札幌「アートと科学哲学からの、想像力をめぐる対話」 – CoSTEP – Communication in Science and Technology Education and Research Program, Hokkaido University

この日のお話は「科学者」と「価値判断」についてでした。なかなか自分の理解が追いついていないと感じる部分も多いです。ご興味ある方は、松王さんのご著書を読んでみるのが良いかと思います: 松王政浩『科学哲学からのメッセージ』(森北出版, 2020)

ここでは、断片的なメモを残しておきます。

Inductive Riskから、ラドナーの主張、ジェフリーの主張

1950年代、「科学的判断」に「価値判断」を含むべきかをめぐって、大きな論争があり、現代に至るまで続いているそうです。

まず出発点としての「Inductive Risk」が紹介されました。個々の事例に基づいて一般的な知識を導く「帰納的推論」は、不確実性を伴い、科学者が仮説を採択/棄却する際に誤る可能性がある、というリスクです。

それを踏まえて、リチャード・ラドナー(Richard S. Rudner)という哲学者は、次のような主張をしました。彼はまず二つの前提を述べます:

  1. いかなる科学的仮説も完全に立証されることはない、誤る可能性がある(Inductive Risk)
  2. 科学者は研究に際し、科学的仮説を受け⼊れるか、棄却するかの態度決定をしなければならない

ここから彼は、この二つの前提を受け入れるなら、「科学者が価値判断を行う」という結論も受け入れなければならない、と主張します。彼は統計的検定など頻度主義統計を念頭に置いているそうです。

ラドナーは例として、「工場の不良品率」と「化学物質の毒性」に関する判断を述べています。後者の方が、誤った際の社会的影響が大きいため、より慎重な判断を要するだろう、誤った仮説を受け入れてしまう事態をより強く避けようとするだろうと。このように影響力の重大さの判断は、価値判断である、というようなお話です。

他方、ではどの程度の閾値を妥当とするかは、科学者のみではなく、社会的に承認された値をもとにすることがあります。例えばリスクが、10万人に1人なら許容できるでしょうか、100万人なら、1000万人なら?講義では、ある審議会での答申を挙げて「落雷の死亡者が100万人に3人、台風や高潮で10^-5。後者では国や自治体の責任が問われるため、10^-5 ~ 10^-6が妥当」というような見方の例が紹介されていました。

このラドナーによる「科学者が価値判断を行う」という主張に反論したのが、リチャード・ジェフリー(Richard Jeffrey)です。彼は、価値判断ではなく、あくまで「確率を導く」ことに留めることを代替案として提示します。その上で、その情報を元に、合理的な意思決定(期待効用の最大化)を行うのだと。ジェフリーはベイズ統計の立場です。

二つの主張を聞いて、個人的には、どちらかというとジェフリーの主張に共感します。科学者だけで判断をすることは実際には難しいのではないか、社会が合意形成して価値判断を行う方が現実的には有効なことが多いのではないか、というようなことを思います。ただ、どちらも極端です。

スティールの中間説

時を経て、ケイティ・スティール(Katie Steele)という哲学者が、ラドナーとジェフリーの中間を取るような説を提示したそうです。

彼女の主張はこうです。科学者が確率判断に留まることは可能であるし、情報提供も本来、その方がよい。ここまでは、ジェフリーの論と同じ流れです。その上で彼女は、「科学者の提示する確率判断をそのまま社会へ提示しても、有効活用できない」と言います。そのため科学者が、「政策立案者などによる社会的利用がしやすいよう、情報を加工するべき」だと。この時、社会的利用を念頭に置くと、一定の価値判断が必要となります。ここでラドナーの論に寄ります。

またスティールの説は、さらに2段階へ分かれるそうです。一つ目は、情報を「政策に利用しやすいよう」加工することが適切である、というものです。続いて二つ目は、情報が「いかに政策へ使われるかを考慮しつつ」加工することが適切である、というものです。後者の方が、よりラドナーの主張に近くなります。

ここまでで、4つの主張が出ました。科学者が価値判断すべき度合いを元に並べてみると、以下のようになります:

ここまで見て、私はやはり後に提示されたスティールによる中間説が、一番魅力的に感じ、また現実的であると思えました。ただそれをどう具体的に遂行するかは、ケースごとにかなり異なるのかなと思います。

IPCC、定性的表現という情報提供の形

講義の後半では、科学と価値判断についての事例として、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)や、COVID-19関連の話題が挙げられました。

IPCCでは、その不確実性評価の方法や表現について、報告書のたびに改良されていて、その基準も同時に公開されているそうです。

政策立案者へ科学的情報を提供する際には、科学者による確信度のレベルを「High」「Medium」「Low」というように、大まかに示す定性的な表現が、情報提供の形として非常に有効であるという知見があるそうです。確かにパッと聞くと、なんとなくそんな感じもします。

ラクイラ地震裁判

最後に事例として紹介された、2009年にイタリアで起きた地震に関する話題が、とても印象的で記憶に残りました:

ラクイラ地震 - Wikipedia

イタリアのラクイラという地域で、まず小さな地震と多くの余震があったそうです。それらを踏まえてイタリア地震委員会は3月31日に大地震の予兆はないと判断し、記者会見で発表。しかし、4月6日に大地震が発生し、6万人以上が被災、300人以上が死亡しました。それまで余震があったため住民らは家の外で就寝したりしていたそうですが、記者会見のあとは家に留まっていたため、被害が拡大した面があるそうです。

そして6月には、委員会の判断が犠牲の原因だとして、安全宣言を出した委員会のメンバー、科学者5名と行政関係者2名が告訴され、10月には禁錮6年の実刑と900万ユーロ(約13億円)の損害賠償命令が出されました。その後、2014年の二審では、一転して行政関係者1名以外は無罪判決、残り1名は執行猶予付き禁錮2年とされ、2015年には最高裁でそれが確定しました:

地震の正確な予知は、できないものだそうです。この時に「科学者が積極的な価値判断を行い、政策を方向づける」(ラドナー的)のか、「分からないと伝え、政策決定者へ委ねる」(ジェフリー的)のか。二審と最高裁による無罪判決は、科学者へラドナー的な立場を、少なくとも法的責任においては求めなかったからだと言えます。

しかし科学者が積極的な価値判断までは行わないにしても、スティールの説にあるような「情報加工」の観点からの、より良いコミュニケーションは求められるのかなと思います:

科学者たちは大災害委員会の中で概ね、まったく大地震にならないとは言い切れないが、多くの群発地震が大地震につながらずに終わっているという一般論を述べている。たとえば、議事録によると、エヴァ委員(ジェノヴァ大学教授)は「多くの群発地震は大地震へつながっていない。当然ながら、ラクイラは地震地帯であるため、大地震にならないと断言することはできないが」と述べている。また、ボスキ委員(当時、国立地球物理学火山学研究所所長)は「(直近の大地震である)1703年の地震のような揺れは、絶対にありえないとは言い切れないとしても、近々起こりそうもありません」と述べた。

この一般論の中では、但し書きの部分「まったく大地震にならないとは言い切れない」が重要で、少なくとも委員会後の記者会見ではこの但し書きを強調すべきであった。科学者の中からただひとり記者会見に出席していたバルベリ副委員長がそれをしていたならば、309名の犠牲者や科学者の有罪判決といった悲劇は防げたかも知れない。実は記者会見の映像は残っているが、音声が残っていない。従って、但し書きが強調されなかったことを確認することはできないが、安心情報を大災害委員会の安全宣言と書きたてる報道のされ方を見れば、強調されなかった、あるいは少なくとも効果がある強調はされなかったと考えざるを得ない。また、メディアはこうした但し書きをそぎ落として白か黒かで報道しがちであるが、その点に関して責任の一端がある。

裁かれた科学者たち ラクイラ地震で有罪判決:FACTA ONLINE(2023-06-12取得)(強調引用者)

科学の力

ラクイラ地震の話を聞いて、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリがテクノロジーと人類の未来について述べた『ホモ・デウス』という書籍の冒頭にある一節を思い出しました:

ところが、3000年紀の夜明けに人類が目覚めてみると、驚くべき状況になっていた。ほとんどの人はこんなことはめったに考えないだろうが、この数十年というもの、私たちは飢饉と疫病と戦争を首尾良く抑え込んできた。もちろんこの3つの問題は、すっかり解決されたわけではないものの、理解も制御も不可能な自然の脅威ではなくなり、対処可能な課題に変わった。私たちはもう、これら3つから救ってくれるように、神や聖人に祈る必要はなくなった。飢饉や疫病や戦争を防ぐためにはどうするべきかを、私たちは十分承知しており、たいていうまく防ぐことができる。

たしかに派手なしくじりも相変わらず見られるが、そうした失敗に直面したとき、私たちはもう、肩をすくめて、「まあ、そういうものだ、しょせん、この世は不完全だから」、あるいは「何事も、神の思し召しどおりになる」などと言ったりはしない。飢饉や疫病や戦争が手に負えなくなった場合は、誰かがヘマをやらかしたに違いないと感じ、調査委員会を設置して、次回はもっとしっかり対処することを誓う。そして、現にそれが功を奏する。

【先行公開】全世界800万部突破の『サピエンス全史』著者が 戦慄の未来を予言する新著『ホモ・デウス』、2018年9月刊行決定! |Web河出(2023-06-10取得)(強調引用者)

また、過去の日記でも度々引用している『科学コミュニケーション』という書籍では、人間という生物に必然的な、人類全体が共有できる価値観として「個人の幸せ」と「人類が集団として生き延びること」があるだろうと述べた上で、それら価値観と科学の関係について以下のように書かれています:

では、これらの価値観と科学とにどんな関係があるのでしょうか。それは、科学が実に強力なツールだったということです。個人の生存にとっても、人類全体の生き残りと繁栄にとっても、科学は実に大きな力を発揮してきました。おそらくは、今後の私たちの生き残りのためにも必要となるでしょう。ただし、いろんな難しい問題に直面している現在、私たちの強力な道具だった科学自体の見直しや位置づけも必要になってきています。「科学の側」と「そうでない側」で価値観が分離したままであったり、科学に無関心であったりしていては、人類にとって不利なのです。

岸田一隆『科学コミュニケーション 理科の〈考え方〉をひらく』(平凡社, 2011) 第1章「科学コミュニケーションとはなにか」p.51(強調引用者)

科学が実に強力だからこそ、それへ続く価値判断には、十分な考慮が必要とされるのでしょう 🕷️