科学技術に関わる活動が専門家のみで行われることの限界?
講義モジュール1「科学技術コミュニケーション概論」課題レポート
7月中旬の札幌、今日は雨模様で、最高気温21度。肌寒いくらいです。
5月から始まったCoSTEPですが、講義の「モジュール1」が全て終わりました。講義は全6モジュールに分かれており、それぞれにレポート課題があります。
モジュール1は「科学技術コミュニケーション概論」と題され、計5つの講義がありました:
- 「科学技術コミュニケーションとは何か」(川本思心), 2023-05-14の日記
- 「先端科学技術の倫理的・法的・社会的課題と責任ある研究・イノベーション」(標葉隆馬), 2023-05-29の日記
- 「対話のその前に〜コミュニケーションのための科学哲学」(松王政浩), 2023-06-12の日記
- 「社会の中での科学技術コミュニケーターの役割:科学ジャーナリストを例に」(隈本邦彦), 2023-06-20の日記
- 「コミュニケーションを改めて考え直す」(種村剛), 2023-06-25の日記
またこれら講義の前、初日に、科学ジャーナリストの須田桃子さんによる開講式特別プログラム「合わせ鏡の間に立って〜科学ジャーナリストの視点から〜」もありました(2023-05-13の日記)。
以下、CoSTEPの許可を得て、モジュール1の課題レポートをここに公開します。ちなみに、2020年度に受講された湯村翼さんも課題レポートをご自身のブログで公開されています:
北大CoSTEPモジュール1「科学技術コミュニケーション概論」を受講しました #costep - yumulog
課題
科学技術に関わる活動が専門家のみで行われることに限界があることを、モジュール1の講義をふまえた上で、論じなさい。(800〜1200字程度)
提出文
科学技術は、国家や、個々人の生活の行方を左右する重大な要因となっています。実験や観察による仮説検証を礎とする科学的方法は実に強力なツールで、それを武器にこの数世紀、人類はそれまでの歴史から考えられないほど急速に社会を変化させました。その道具を手放して後戻りすることは、現実には考えられないでしょう。
科学技術を先へ進めるとき、その帰納的推論は不確実性を伴います(Inductive Risk)。つまり、いかなる科学的仮説も、完全に立証されることはありません。また、科学技術が社会実装されるとき、そこには技術”自体”以外の、倫理的・法的・社会的な課題(ELSI)が生じます。科学では答えることができない、価値判断を伴うトランスサイエンスの課題は、専門家だけで全て処理できるものではないし、そうすべきではないと私は考えます。
専門家と一般人の間にズレがあることは事実でしょう。例えばキメラ胚について、生命科学者は冷静な判断を下せるでしょうが、私をはじめとする多くの市民は忌避感を覚えるでしょう。また、英国のBSE問題や、日本での震災と原発といった事例から、専門家へ対する信頼が損なわれたという前提もあります。
そんな中で、専門家によるパターナリズム的な方向性(欠如モデル)は、事態を上手く進めていくためには望ましくないでしょう。まず、そのような頭ごなしの態度は、聞き手の受容を難しくします。コミュニケーションの成否を決めているのは、受け手の側です。また、”専門家”は必ずしも一般市民の上位互換として存在するわけではありません。素人の専門性が大いに役立つこともありますし、専門家も自身の領域を出れば非専門家です。
今年(2023)、ChatGPTに代表される大規模言語モデルが台頭し、潜在的リスクを重く見た専門家達から「6ヶ月間の研究停止」を求めるオープンレターが提示されました。このような議論や意思決定は、一部の専門家だけでなされるべきでしょうか?事実に基づいた冷静な議論が、多様な価値観を持つ人々を交えて行われ、合意が形成されていくべきではないでしょうか。
科学技術は、人間社会へ恩恵をもたらすためにあるものでしょう。その影響を被るのは専門家だけではありません。そのとき、社会が「科学技術の側」と「そうでない側」で分断してしまっていたり、多くが科学に無関心であることは、人類の存続と個人の幸福追求にとって好ましくないでしょう。科学技術の知識を、専門家に限らず広く市民が共有し、より良い合意形成と意思決定を行なっていくことが、近代市民社会のあり方に則していると私は考えます。
(1090字)🚰